僕らの世代の料理人は料理学校なんか出てません。
厳しい弟子入り修行を経ていくつもの現場で叩き上げてきた最後の世代じゃないのかなぁ。
頑固ですからね、自分の味には絶対の自信を持っている。
鍛え上げてきた正当な調理だからたとえお客様でも簡単には追従しないんだ(笑)
でもそれをわかって来てくださるお客様には最高のおもてなしをしたいと思っているんです。
僕らの世代の料理人は料理学校なんか出てません。
厳しい弟子入り修行を経ていくつもの現場で叩き上げてきた最後の世代じゃないのかなぁ。
頑固ですからね、自分の味には絶対の自信を持っている。
鍛え上げてきた正当な調理だからたとえお客様でも簡単には追従しないんだ(笑)
でもそれをわかって来てくださるお客様には最高のおもてなしをしたいと思っているんです。
これは僕の虎の巻です。このぼろぼろになったノートの中に僕の料理人としての半生が詰まっている。いろんな創作の源になる調理の基本がぎっしりと書き込まれてますよ。実は今「宮村」にはメニューが無いんですけど、そんな事どこ吹く風と、僕が勝手においしいもの作ってお客様に食べさせちゃうの。それをお客様がおいしいと喜んで食べてくださる。ありがたい事だなぁ。だからいつも僕はその信頼を裏切らない本物の味を皆さんにお出ししたいと思ってるんですよ。
| ホーム | レストラン宮村の歴史 | 父が残したもの | 宮村シェフのお役立ちレシピ集 |ブログ |
メニュー代わりに、「宮村」の味のルーツをお話ししましょう。
今から思うと本当にいろんな事があったなぁ、と思います。
今から料理人目指す人も、目指さない人も、何か人生のヒントになることがあるかもしれない。
これは僕から若い人たちへのささやかな贈り物です。
ご年配の皆様は、しばし重なる思い出にひたってください。
僕の食の原点は実は中国にあるんです。
僕は昭和16年に中華人民共和国の天津市須麻街という所で生まれました。当時、父は満州鉄道、いわゆる満鉄の華北鉄道が運営する大和ホテルの料理長兼支配人として天津に赴任していたんです。
この大和ホテルというのは、皇族や著名な政治家とか軍人といった人たちしか泊まれないような高級ホテルで、そこの支配人をまかされていた父親は、当時大卒の人が貰う給料の何倍もの給料を貰ってました。家にはお手伝いさんが7人居て、僕にはワンさん、チャンさんという2人の食事係がついていました。
現在の大和ホテル(大連市)